村主章枝選手の壮絶なる人生<前編>

 フィギュアスケーター村主章枝(すぐりふみえ)選手、二度の五輪で活躍した村主選手は、競技中の豊かな表現力とスピード感から氷上のアクトレス(女優)と呼ばれるようになりました。彼女の追い込まれたベテランフィギュアスケーターの苦悩に注目してみたいと思います。

両親の退職金と貯金を使い込む

 トップフィギュアスケーターとして活動するには多額の資金を要します。現役時代の後半、彼女には無収入の時期がありました。彼女自身の所有している額では足りなくなり、スケーターとしての生活を維持できなくなってしまったそうです。そこで、父親の退職金や母親の老後のための貯金に手をつけてしまったとのこと。現役引退をずるずると引き延ばした結果、彼女は無収入で両親の退職金と貯金を使い込んでしまいました。それでも彼女は頑なに現役を引退しませんでした。

 当時を振り返ると、彼女は意地になって現役を継続していたようです。女子フィギュアの主な選手の平均的な引退年齢は、20代前半から26才くらいまでが多いです。オリンピック金メダリストは10代後半の選手が多いのです。村主選手は33才で現役を引退しました。

アラスカでの幼少期の思い出

 父がパイロット、母がCA(キャビンアテンダント)という家庭の長女であり、幼少期はお父さんの仕事の関係でアラスカ(カナダの北西部に位置する/アメリカ)で2年間ほど暮らしていたそうです。その頃、沼でスケートを楽しんでいた思い出がありました。アラスカの冬は厳しいです、マイナス30度にもなります。沼が凍るとスケートができる環境でした。日本に帰国後、アラスカでの思い出を忘れないようにと彼女のお母さんがスケートを習うことを始めさせました。

世界的振付師ローリー・ニコル

 彼女は16才の時に全日本選手権(1996年)で優勝しました。その頃に彼女の人生を大きく変える人物に出会います。世界的振付師ローリー・ニコルに。ニコル先生は浅田真央選手、高橋大輔選手、カロリーナ・コストナー選手といった世界的な選手の振り付けを手掛けた人です。フィギュアスケートには、コーチの他に振付師が必要になります。音に合わせて振りをつけるだけではなく、選曲や曲の編集、プログラムの中の構成を考えたりします。
 振付師の役割は非常に重要です。村主選手は将来的に振付師を目指していました。彼女が活躍した同時期にミシェル・クワン選手がおり、この選手が一年間で少女から女性のスケーターに変わった時期がありました。実は、このローリー・ニコル先生がクワン選手の振り付けを手掛けて大変身を遂げました。それを目にした村主選手は、ニコルに自ら連絡したそうです。

ライバル荒川静香

 全日本選手権1996で優勝し、信頼できる振付師(ニコル先生)を見つけたことで絶好調の村主選手。しかし、この時、将来のライバルたちも天性の才能を開花させようと努力していました。この時が1996年でした。このまま順調に進めば、1998年の長野オリンピックに出場できるのではないかと思われました。当然、周囲からも期待されていました。

 彼女が全日本選手権1996で優勝した時の準優勝は荒川静香選手です。この先、長らく激闘を繰り広げるライバルとなる選手が荒川選手でした。荒川選手は小学校3年生で3回転ジャンプをマスターするという、当時は天才少女と呼ばれていました。

 フィギュアスケート長野五輪に出場できる日本人選手は一人(1枠)だけでした。1枠の長野五輪の代表を村主選手と荒川選手は争うことになりました。2人は年齢も近く、お互いを意識する関係でした。翌年1997年の全日本選手権長野オリンピックの代表選考を兼ねた大会でもありました。その年の優勝者は、荒川選手でした。村主選手は2位でした。この結果により、彼女は長野オリンピック(1998年)には出場できませんでした。その後も荒川選手と熾烈な戦いが続きます。彼女は語ります、「荒川選手がいたからスケートの技術を伸ばすことができた。」と。

 長野五輪から4年後のソルトレーク五輪(2002年)で今度は日本代表選手として出場することができた村主選手ですが、その結果は5位入賞でした。それは彼女にとって力を出し切っての5位でした。メダルの重みを感じた瞬間でした。

<後編>へ続きます。

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